Ambiguous Zones 13

リンカーン・センター劇場プログラム、1979年5月、表紙。124 W Houston Documents, Box 4N14, Folder 50, Reversible Destiny Archives

みなさま

暖かい春の気候とともにAmbiguous Zones 13号をお届けします。今回は、リバーシブル・デスティニー財団のプロジェクト・アーキビストであるキャサリン・デネットが発見した不思議なアーカイヴ資料―1979年5月リンカーン・センターで開催された荒川の名を冠した演目のある劇場プログラム―そしてその背景について探るものです。このプログラムは作曲家のエドヴァルド・リーバーによる夜の部のコンサートのもので、 “Neither Arakawa Nor Jasper Johns Are Each Other” (荒川もジャスパー・ジョーンズも互いではない)、というタイトルの曲が含まれています。この興味深い作品を出発点としてデネットは、荒川に着想源を得た2番目の作品である、コネチカット州ハートフォードにあるワズワース・アテネウム美術館で演奏されたBlank Stations II (1982年)に焦点を当ててリーバーのキャリアを概説しています。

Yours in the reversible destiny mode,
Reversible Destiny Foundation and the ARAKAWA+GINS Tokyo Office

*Ambiguous Zonesは年4回の配信へと変更となりました。3ヶ月毎にAZのコンテンツを配信しますと共に、重要なニュースや最新情報がある際にはその度毎にお届けいたします。
図1: 劇場プログラム画像 (一部切り取り) "Neither Arakawa Nor Jasper Johns Are Each Other”を含むエドヴァルド・リーバー公演のためのリンカーン・センター劇場プログラムより。124 W Houston Documents, Box 4N14, Folder 50, Reversible Destiny Archives

私はリバーシブル・デスティニー財団のアーキビストとして、荒川とマドリン・ギンズの多面的な芸術活動の痕跡を、詩の草稿や絵画のためのスケッチ、科学研究論文、建築プロジェクトのデジタルレンダリングなどその他様々なタイプの資料で知ってはいましたが、作曲家としての二人の活動についての証拠はこれまで見たことはありませんでした。そのため、主に1960年代の荒川の展覧会レビューが入っている「プレスのコピー」と書かれたフォルダの中に、リンカーン・センターの劇場プログラムを見つけたときには驚きました。(図1)

その1979年5月の劇場プログラムは、作曲家Edvard Lieber(エドヴァルド・リーバー)[1]による一夜の音楽パフォーマンスについてのもので、その中には “Neither Arakawa Nor Jasper Johns Are Each Other” (荒川もジャスパー・ジョーンズも互いではない) と題された曲も含まれています。またそれとは別に、RDFのコレクションには、ジョーンズとリーバーが、当時のニューヨークダウンタウンの現代アートシーンで共通のメンバーであったことを示す散逸した書簡が数点所蔵されています。(図2)その中に、リーバーから荒川へのクリスマスカードがあり、リンカーン・センターの劇場プログラムに掲載されたものと似たようなドローイングが描かれています。この曲がどのようにして生まれたのか、作曲家とタイトル上の人物たちとの間にどのようなコラボレーションがあったのか、そもそもコラボレーションがあったのかも、今のところ我々のアーカイブからは判明していません。しかし、2人のアーティストは実際にそれぞれ作品を提供し、このイベントのポスターに使われており、そのコピーは現在、米国議会図書館に所蔵されています。[2]

図2: エドヴァルド・リーバーから荒川へのホリデーカード。124 W Houston Documents, Box 1A07, Folder 4, Reversible Destiny Archives

その曲自体の録音を見つけることができなかったため、当時の記述から演奏を想像することしかできません。リーバーはプログラムノートでは、この曲を次のようにまとめています。 

この室内楽オペラでは次のことを探求する:接続性 vs. パラドックス、音の衝突、確立された参照点の排除、物理的事実 vs. 心霊的効果、閉じた物体としての形態、レディメイド(後付けの笑い、マルセル・デュシャン、ロングアイランド高速道路の部品など)、多重性 vs. 異質性、プロセスの調査[3]

コンセプト的には豊富ですが、この概要はこの曲がどのように演奏されたかを判断する上ではあまり役に立ちません。ありがたいことに評論家のジョン・ロックウェルが、特に肯定的ではないものの、ニューヨーク・タイムズ紙にこのパフォーマンスのレビューを書いています。筆者の疑念とは裏腹に、その記事がこの曲の構成についてより明確なイメージを与えてくれます。「26人のパフォーマーが交代で話したり、シーっと音をたてたり、詠唱したり、そしてうめき声をあげ、歌い、パーカッションやその他の楽器の演奏をし、そしてカセットレコーダーの操作をしている」。ロックウェルは、出来上がった作品が、1960年代の初期前衛音楽の合唱作品を思わせるような「多少の魅力」を持っていたことを認めています。[4]

これで、混み合った舞台の様子は想像できます。ただ、1960年代の前衛合唱音楽をあまり聴いたことのない私には、これらの全く異種の音源が一体となって、どのような音を生み出すのか想像するのは難しいのですが、荒川の芸術や芸術的実践とリーバーの作曲との間につながりのようなものが見えてきます。リーバーの出身地であるロングアイランドで彼がデビューした1979年に、ヘレン・A・ハリソンがニューヨーク・タイムズ紙の記事で指摘したように、音楽に触発された視覚芸術はその逆のアプローチ、少なくともリーバーのように(訳者補:視覚芸術に触発された音楽であると)明白に表明している例、よりもはるかに一般的です。彼は触発のプロセスを直訳的なものとはせず、「キャンバスの視覚的なインパクトよりも、その暗示的な資質に基づいて」[5]作曲していると説明しているのです。絵画の主観的な体験をもとに音楽を作ることで、リーバーは多くの美術鑑賞者の脳内で起こっているプロセスを外在化させたのです。当時、荒川の作品、特に《意味のメカニズム》やその他のダイアグラム絵画にとって重要なプロセスとは、認知や想像などの内的プロセスを外在化させようとするものだったからです。

RDFのアーカイブにはリーバーが残した痕跡はほとんどなかったこともあり、この興味深い共鳴を胸に、私は彼についてさらに情報を探しました。コンサートピアニストであると同時に、作曲家、映画監督でもあったリーバーは、その後、ウィレム・デ・クーニングの作品に関連して幅広く作曲し、本とCD『Willem de Kooning: Reflections in the Studio』を出版しています。さらにその後、1980年代後半には、デ・クーニングのもとで秘書やキュレーターとして働いてもいました。[6] この系統の初期の作品で“Montauk”と題された曲が“Neither Arakawa Nor Jasper Johns […].”の直前に演奏されましたが、リーバーはアートから触発された曲のプログラムを組む際に、「展覧会で絵画をかけるように編成するんだ。常に動かしながら、どれを一緒にすると一番うまくいくか見ていくんだ。」とハリソンに話しています。[7]

つまり、“Neither Arakawa Nor Jasper Johns […]” は、いわば二重の展覧会であると考えることができるでしょう。荒川とジャスパー・ジョーンズの両人の絵画の特質が暗示する構成を作りながら、彼ら二人の作品がリーバーの耳に呼び起こす音の区別を、少なくともタイトルでは、明確にしているのです。

1979年のニューヨーク・タイムズ紙の記事に加え、私の研究は1982年のワズワース・アテネウム美術館でのMatrix ’72 荒川展のパンフレットにも及びました。そこには、同展に合わせてリーバーが「荒川のBlank Stations II に触発された新しい曲」を演奏するという告知が掲載されています。[8] (図3)

図3: 荒川修作、Blank Stations II、1981-1982年;アクリル絵画(6枚組);305 x 1284 cm。東京都現代美術館蔵

このパンフレットの中で、当時ワズワースの教育担当キュレーターだったダニエラ・ライスは、荒川の絵画が「言語や言語に基づく思考の欠点への」彼の自覚を示しているとし、「1961年に米国に来て以来、彼は作品の中で言葉、数字、線、形、色を組み合わせることによって、彼自身が思考フィールド(thinking field)と呼ぶものをマッピングしようと試みてきた。」[9]と書いています。 ライスはまた、「Blank Stations II のような作品は一目で見るには大きすぎるため、我々は絵の表面に目を這わせ、ランダムにイメージを拾い集めながら、そこに書かれたメッセージをゆっくりと読み解いていく必要がある」と説明し、そのプロセスを一種の「瞑想」であると表現しています。[10]残念ながら、その録音を見つけることはできませんでしたが、この絵に触発されたこの曲はリーバーにとっての瞑想と呼べるようなものだったのではないでしょうか。また、荒川からの思索することへの誘いに対するリーバーの返答記録のようなものだったのかもしれません。

これが当時の荒川とマドリン・ギンズのプロジェクトとリーバーの作品の一番興味深い類似点であると思います。一見しただけでは、またあるいは(ニューヨーク・タイムズの音楽評論家のような)伝統的な訓練を受けた目には、鐘をたたき鳴らしたり、テープレコーダーを操作したり、多数の矢印や不可能そうな指示たちといった両者の作品の最終形態は混沌としたものに見えるかもしれません。しかし、リーバーも荒川とギンズも、言語では捉えきれない何かを表現するために独自のメディウムを使っていたのです。

最終的に、当初よりもより多くの疑問を抱えて、長いリサーチのトンネルから出てきてしまいましたが、これはアーカイブにはつきもののことです。RDFのコレクションと私達の理解の間のギャップを指し示す歴史の素晴らしい痕跡の数々を目の当たりにしながら、一見混沌としたものを説明しカタログしていく私の仕事は続きます。それを続けていく中で、より多くの答えではなく、より多くの興味深い疑問を見つけていければと思っています。

[1] EdwardもしくはEduard Lieberという表記が存在するが、ここではこの劇場プログラムとリーバー自身による出版物に使われている表記を使用。 

[2] “Edvard Lieber.” 1979年。 www.loc.gov 。 2004年。 https://www.loc.gov/pictures/item/2006675113/

[3] エドヴァルド・リーバー “Neither Arakawa Nor Jasper Johns Are Each Other” ニューヨーク リンカーンセンターにおけるエドヴァルド・リーバーのワールドプレミア3公演のための劇場プログラム、1979年5月。

[4] Rockwell, John. “Music: By Eduard Lieber” ニューヨーク・タイムズ、1979年5月10日。 https://www.nytimes.com/1979/05/10/archives/music-by-edvard-lieber.html。

[5] Harrison, Helen A. “The Lively Arts: De Kooning’s Art Inspires Composer” ニューヨーク・タイムズ、1979年3月18日。 https://www.nytimes.com/1979/03/18/archives/long-island-weekly-the-lively-arts-de-koonings-art-inspires.html。

[6] Lieber, Edvard and Willem De Kooning. 2000. Willem De Kooning: Reflections in the Studio. New York: H.N. Abrams.

[7] 同注5

[8] Arakawa: Matrix 72。1982年。ハートフォード、ワズワース・アテネウム美術館。https://www.thewadsworth.org/wp-content/uploads/2011/07/Matrix-72.pdf

[9] Arakawa: Matrix 72。1982年。ハートフォード、ワズワース・アテネウム美術館内 Rice, Danielle. “Arakawa”。 https://www.thewadsworth.org/wp-content/uploads/2011/07/Matrix-72.pdf, 2項より転載。

[10] 同上、4項参照。

翻訳:藤高 晃右(ふじたか こうすけ)