History

荒川修作+マドリン・ギンズ

荒川修作(1936〜2010) 愛知県名古屋市生まれ
マドリン・ギンズ(1941〜2014) ニューヨーク市生まれ

ARAKAWA+GINS (photo by 山本真人)

荒川修作 誕生〜日本での活動

荒川修作は1936年 愛知県名古屋市生まれ、愛知県立旭ヶ丘高校(旧制愛知一中)美術課程卒業。1956年武蔵野美術大学に入学(のちに退学)。1957年には第9回読売アンデパンダン展(東京都美術館)にて展覧会に初出品(以降、第13回展まで出品)、美術批評家、瀧口修造に注目される。1960年、吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平らと「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」を結成、当時は木箱の中に不気味な形状をしたセメントの塊が横たわる通称「棺桶」シリーズと呼ばれる作品群を制作発表する。最初の個展「もうひとつの墓場」(1960、村松画廊)を機にネオ・ダダを離脱。

荒川修作 1960年ごろ

荒川修作:
最近私は、今までの芸術ではとうてい人間救済は不可能の様な気がして来ました。
まったくジャンルの違った所から科学芸術(物理、化学、生物等)というもう一つの答えの出る芸術が人間救済に立ち向かうのではないかと思い始めて来ました。

『現代の眼』77号、1961年

瀧口修造と荒川修作 1961年 羽田空港にて

瀧口修造に見送られニューヨークへ、
マルセル・デュシャンとの出会い

1961年、江原順企画の第2回個展「荒川修作」を夢土画廊にて開催。カタログに瀧口修造が文章を寄せる。同年12月、幼少より抱いてきた「死」という与えられた人間の宿命を乗り越えようとニューヨークへ渡る。渡米を荒川に勧めたのは読売新聞文化部の海藤日出男、ビザの保証人は中谷宇吉郎、航空券を手配したのが出光佐三、空港へは瀧口修造が見送りに訪れる。

渡米後、現代美術の巨匠マルセル・デュシャンと出会う。荒川は自分が試みようとしていた芸術の世界(表象的な図形・記号・言語を用いた精神の世界の表現・創作)をデュシャンがすでに体現し突き詰めていたことを知り、それを超えるには身体・肉体に向かわなければならない、というテーマを自身に課すことになる。デュシャンの紹介で、ドイツのシュメラ画廊をはじめ、アメリカのドワン画廊、フランスのイヴォン・ランベール画廊、ベルギーのワイド・ホワイト・スペースなどで立て続けに個展を開催、日本では南画廊(1965、1969)にて個展を開催する。当時発表されたペインティングは立体の平面図に文字や記号を配置した作品「図式絵画」(ダイアグラム)と呼ばれる。

マルセル・デュシャンと荒川修作、ドワン画廊 1966

荒川修作:
瀧口さんからデュシャンの電話番号と住所をいただいたので、ニューヨークの飛行場に着いて、そこから連絡してみたところ、ワシントンスクエアのアーチの下にいるからと、グリーンのコートと帽子をかぶっているといわれ…(中略)…「三六の番号のあるバスに乗れ」と言われたのですよ。

『荒川修作の軌跡と奇跡』NTT出版、2009年

生涯のパートナー マドリン・ギンズとの出会い、共同制作を開始

1962年には公私ともにパートナーとなるマドリン・ギンズと出会い、図式絵画を更に拡張させ、見るものにエクササイズとして行為を求める《意味のメカニズム》プロジェクトを開始する。ギンズは1941年ニューヨークに生まれ。1962年バーナード・カレッジを卒業。詩人として活動していたが、荒川と出会い、以降は二人の共同作業が活動の中心となってゆく。

マドリン・ギンズと荒川修作、1972年

荒川修作+マドリン・ギンズ:
死とは古風なものである。
随分奇妙なことだが、わたしたちはこんな風に考えるようになっていた。

『意味のメカニズム』1978年

『意味のメカニズム』ドイツ語版、1971年
『意味のメカニズム』(日本語版 / 翻訳:瀧口修造、林紀一郎)ギャラリーたかぎ、1979年

《意味のメカニズム》世界へ

《意味のメカニズム》は1970年、第35 回ヴェネツィア・ビエンナーレ展(コミッショナー:東野芳明)の日本館にて初めて発表。同作は16章、80点以上に渡り、1点の大きさが244.0×173.0cmにもなる大作である。

翌年 1971年には『意味のメカニズム』がドイツ語版で刊行される。同書について美術評論家の岡田隆彦は「1963年から71年に至るまでの荒川の作品集であるとともに、表題にある通り、荒川が最も深い関心をよせていることがらを示したものである」(荒川修作年譜『現代思想』臨時増刊号より)と評す。同書の日本語版は1979年にギャラリーたかぎ、1987年にリブロポートより刊行される。『意味のメカニズム』は不確定性原理を提唱した物理学者、ヴェルナー・ハイゼンベルクに賞賛され、それを機にドイツのマックス・プランク研究所に招待を受け、多くの物理学者・科学者・生化学者をとの交流が始まる(1972)。『意味のメカニズム』は現在も、数学者やクリエーターのバイブルとして読み継がれている。時期を同じくして、哲学・科学・芸術の総合に向かう仕事とはなにかについて思索探求を始める。

1972年《意味のメカニズム》展がベルリン市立美術館などを巡回、1975年には第7 回国際絵画フェスティバル(カーニュ・シュル・メール)で大賞受賞、1977年にはドクメンタⅥ (カッセル)に出品などヨーロッパ美術界での評価を確立。アメリカでは1972年ロナルド・フェルドマン画廊で初めての個展が開催される。

荒川修作、マドリン・ギンズとともに18年ぶりの帰国

日本では1979年に西武美術館、国立国際美術館、兵庫県立美術館3館同時での個展が開催されることになり、荒川が18年ぶりに帰国、この時瀧口修造の臨終に立ち会う。瀧口修造の絶筆は「荒川修作への小序」(「絵画についての言葉とイメージ 荒川修作展」カタログ、西武美術館、1979)となる。

瀧口修造の墓前にて 1980年代

荒川修作:
僕は絵描きですけど、長い間全く変なことに興味を持っている。まずエコノミー、経済ってなんだろう、モラリティー、道徳というのは一体どういうものだろうか、と。それから、エティック、倫理というものにもっとも興味がある。なぜならその内容を変えない限り、僕たちの脱出路(スケープ・ルート)は決してこの世にはないということが、わかったからです。

『季刊思潮』1988年第一号

《問われているプロセス/天命反転の橋》(1973〜2018)
《どこにでもある場X》

身体を中心とした作品=立体作品への移行

1980年代、一時期ニューヨーク郊外のクロートン・ハドソンに場所を借り、身体を中心とした考察を様々に展開、イタリア、ヴェネチア市の小島マドンナ・デラ・モンテに作品を設置するプロジェクト《Container of Perceiving》(1983 〜)やフランスのエピナール市を流れるモーゼル河にかける橋《問われているプロセス/天命反転の橋》(1973〜)などを構想、作品の形態が平面から徐々に立体へと移ってゆく。

1987年にはマドリン・ギンズとの共著『死なないために』が刊行(フランス語版。日本語版はリブロポートより1988年に刊行)。

1991年に東京国立近代美術館にて開催された「荒川修作の実験展-見る者がつくられる場」では、大掛かりな体験型作品(インスタレーション)を数多く出品。荒川自身が続けてきた身体そして生命への探求結果を周知させる大きな転機となる。

荒川修作:
古いコモンセンスや道徳を変えるには、もはや建築革命しかないと考えているのです。…(中略)…私が日本を出た当時は、“芸術”という形式を使用して、道徳を変え、人間救済が可能だと思っていたのですが……。私の使っていた形式には身体がいつも外側にだされるために、精神とよばれているものには注意を払いますが、肉体はいつも忘れられていたようです。

『BCS』1993年夏号

初めての建築作品の実現

1994年、岡山県奈義町の奈義町現代美術館が開館、恒久設置作品としての《遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体》が完成。近年パーマネント展示をうたう美術館が注目を集めているが、当時は画期的な美術館のあり方として大変な反響を受ける(同美術館の設計は磯崎新、荒川+ギンズの他に作品が設置されているのは宮脇愛子、岡崎和郎)。

《奈義の龍安寺》はシリンダー状の部屋の中に龍安寺の石庭が両壁に設置され、訪れた者の感覚を撹乱し、刺激を与えるのと同時に、荒川の唱える「生命の外在化」を体験できる貴重な構築物である。

1995年、《養老天命反転地》開園。完成後25年以上経つ現在も、国内外から年間約10万人以上が訪れている。

1997年には日本人として初めて、ニューヨークのグッゲンハイム美術館(SOHO)にて、大々的な回顧展「Reversible Destiny: WE HAVE DECIDED NOT TO DIE」展が開催される。

2005年、名古屋市住宅供給公社事業《志段味健康住宅科学公園》(現・シティ・ファミリー志段味)が「愛・地球博」に合わせて完成。荒川修作+マドリン・ギンズ事務所が基本構想・基本設計を担当する。

《遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体》1994
グッゲンハイム美術館 展示風景 1997
《養老天命反転地》1995

荒川修作+マドリン・ギンズ:
何千年前から進められ、モダンアーキテクチュアと呼ばれ実現されてきた建築とは、距離を持つ新しい建築のコンセプトの誕生です。

『新建築』2006年2月号

《三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー》2005年

《三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー》完成

2005年秋には、《三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー》が完成 。世界で始めて荒川+ギンズが訴え続けてきた「生命を生む環境」「死なないための家」の第一号となる。全9戸の集合住宅からなり、安井建築設計事務所が設計を、竹中工務店が施工を担当する。竣工以来、世界各国からメディアが取材殺到し「芸術作品か住宅か」という議論は現在も続いています。また、現代日本のバリアフリー考にも一石を投じ、この住宅の空間について理学療法・作業療法の分野からの考察も重ねられている。

2008年にはニューヨーク郊外のイーストハンプトンに《Bioscleave House(バイオスクリーブ・ハウス)》が完成、「死なないための家」第二号である。

《バイオスクリーブ・ハウス》2008

荒川修作:
一万年後に会おう。

映画『死なない子供、荒川修作』2010年

日本での2つの展覧会、荒川修作+マドリン・ギンズ逝去

2010年荒川+ギンズの思想・創作を巡る国際カンファレンス「荒川修作+マドリン・ギンズをめぐる第3回国際会議」がニューヨークで開催、日本では2つの個展「死なないための葬送…荒川修作初期作品展」(国立国際美術館)と「荒川修作+マドリン・ギンズ:天命反転プロジェクト展」(京都工芸繊維大学 美術工芸資料館)が開かれる。世界中で同時多発的に荒川の活動に注目が集まる中、個展開催中の5月19日、荒川がニューヨークの病院にて逝去。初のドキュメンタリー映画『死なない子供、荒川修作』の公開が控える中での出来事であった。

2013年12月、 ニューヨークのDover Street Market New Yorkに《Biotopological Scale Juggling Escalator》が完成。荒川不在の中、マドリン・ギンズが完成させた初めての建築作品となる。翌2014年1月8日、完成を見届けるようにマドリン・ギンズがニューヨークの病院にて逝去。

《Biotopological Scale Juggling Escalator》2013年
AGxKANSAI 2022 Art and Philosophy in the 22nd Century After ARAKAWA+GINS
The VR project of the Process in Question/ Bridge of Reversible Destiny in collaboration with technologists in Tokyo

国際カンファレンスの開催、継続した研究活動へ

荒川+ギンズがこの世を去った後も彼らの思想・創作をめぐって、芸術、哲学、科学の専門家や研究者が活発に議論を続けており、アメリカでは2018年、コロンビア大学アーサーロスギャラリーにて「Arakawa and Madeline Gins: Eternal Gradient」展(翌年、シカゴのGraham Foundationへ巡回)、日本では2016年から関西大学東西学術研究所にて荒川+ギンズ(身体論)研究班が発足し、2022年3月には京都芸術大学にて「AGxKANSAI 2022:Art and Philosophy in the 22nd Century After ARAKAWA+GINS」が開催されるなど、継続的に研究活動が続いている。