THOUGHTS
ホモ・エクササイズー生き抜くことへの賛歌
日々新たに目覚めるために-荒川修作とともに
エルヴィス・プレスリーへの手紙
宿命反転都市を目指して

 
日々新たに目覚めるために
 
知覚の行為を誘発するだけでは、容易に経験を変えることができない。経験を変更するためにいま身体に負荷をかけてみる。たとえば重力に対して身体の均衡をとる動作は、二足歩行を開始する幼児期にさんざんと試行錯誤をし、すでに思い起こすことのできない記憶となって身体に内化されている。そのため地面に立っているとき、重力にたいして均衡をとっていることなど意識に浮かびはしない。均衡の維持は、すでに思い起こすことのできない記憶であり、かつてシェリングが 先験的過去 (5) と呼んだものの一部である。身体に組み込まれた記憶は、ほとんど先験的過去となっている。経験的過去は意識の想起をつうじて思い起こすことができる。だがつねにすでに思い起こすことのできない記憶は、意識の操作によっては回復されはしない。身体に負荷をかけることはこうした層に経験を届かせることである。岡山県奈義町の「 奈義の龍安寺・建築的身体 」や、岐阜県養老町の養老公園中腹部にある「 養老天命反転地 」が企てたのは、この先験的過去を思い起こす工夫である (6) 。ところがこの先験的過去の想起は、奇妙なことだがつねに何かをみずからで作り出すというかたちでしか成立しないのである。そのため先験的過去は、つねに前方からやってくる。


アフォーダンス の理論では、重力や光のような通常の行為の定常条件となっているものを、対象として語る回路をもたないできたし、また実験の対象ともならなかった (7) 。それは重力や光が、行為の形成にとってつねにすでに内的であり、形成された自己にとっては内部も外部もないというように浸透しているからである。重力と運動系は、おそらくひとつの系に統合できず、光と色や形の記述は、ひとつの系に統合できない (8) 。こうして重力や光は、語られることもなく自明な浸透する環境となっていた。この自明となっていた自己の境界そのものを再度作りかえる場を形成したのが、「奈義の龍安寺・建築的身体」である。奈義町の山並みを背景として、突如斜めになった巨大な円筒が出現する。磯崎新の設計で、概観は建築物として環境の新たな再配置を実行している。この巨大な円筒形のなかに龍安寺の庭園が射影され造形されている。円筒形のなかから龍安寺を経験するのである。平面の庭園が円に写像されることは、面と円筒の関係からみて不可能である。かりに平面の庭園を円に写し取ったとしたら、庭園は環境のなかに場所を占めることができず、環境内の区画をもつこともできない。庭園は際限なくつづく円環となって、そのことによって庭園はそれじたいで存在する。

庭園を巡る知覚は、横倒しに突き出て並ぶ龍安寺の庭石から、弧を描く土塀の屋根を経て、湾曲する地面へ、さらに反対方向の横倒しに突き出た庭石を経て、再度弧となった天空をへて、ぐるぐると回る。知覚はみずから切り閉じることによって、切り閉じた円形の空間のうちに存在するのである。知覚の特性によって、通常知覚は知覚対象に対してただちに鳥瞰的な視点を獲得することができる。眼前に広がる風景を、ヘリコプターから見た風景へと転換することができる。この鳥瞰的な視点の移動を円環の活用によって封じ、知覚がみずから自身で切り閉じる空間形成そのものを実行させるのである。これは知覚がそれとして成立する現場そのものであり、この奇妙な円筒形のなかで、身体の内から繰り返し懐かしさが染み出してくるのは、知覚がそれとして成立する場面へと引き戻されているからである。これを母体内への胎内回帰という精神分析じみた用語で語るわけにはいかない。すでに忘れ去ってしまった場所が問題になっているのではなく、そこで再度生まれていくことが要請されているからである。

しかもこの巨大な円筒は斜めに設置されているために、このなかでは重力に対して安定した姿勢をとることのできる地点は、どこにも存在しない。つまり一切の前提を欠いたところから知覚と身体行為とをやり直さなければならない。一切の前提を欠き、知覚を純粋に行為として実行し、知覚が原初的な動きとしてある場所を、荒川は「 遍在の場 」と呼んでいる。上下も左右も存在しないところから、再度身体を形成しなければならないのである。


この場所のことを、荒川は『死なないために』では「 ブランク 」と呼んでいるように思える (3) 。意味の可能性は視覚的には一種の空白となって、まるでものごとの裾野のような広がり方をしている。いま眼前に花瓶を置き、花瓶の裾野を眼前に開け広げる。これは対象そのものに対して地平のようになっている。このとき明確な意味である花瓶を取り除いてみる。そうすると広がりだけが残る。視覚のこの事例を、形成された意味一般に拡大する。明確な意味を取り除いたとき、そこに成立しているのがブランクである。このとき何を経験するかを問うているのが、この『死なないために』という作品のモチーフである。いっさいの対象が失われたブランクでも、感覚はなおそれ自体で動きつづけている (4) 。この動きは時間、空間以前のものであり、座標系以前の動きである。このブランクに原初的な境界が形成されたとき、これが 「 切り閉じ 」と呼ばれる。この最初の境界は、原感覚 に対応している。動きつづけている感覚が、まさにみずからの動きによって世界に境界を形成していくその場面を捉えているのである。原感覚とは、運動することと感覚することがまさに分岐する地点で作動している感覚である。この切り閉じが、オートポイエーシスの「自己」(Selbst)であった。運動を継続することが、すなわちみずからの境界を区切ることだからである。



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