THOUGHTS
ホモ・エクササイズー生き抜くことへの賛歌
日々新たに目覚めるために-荒川修作とともに
エルヴィス・プレスリーへの手紙
宿命反転都市を目指して
 
日々新たに目覚めるために

 『意味のメカニズム (1) 』のなかで荒川が複数回使用しているものに次のような作品がある (下図参照) 。 大きな白い紙を均等に四分割し、右下のものだけを黒く塗りつぶす。その隣に同じ大きさの白紙に、無造作にラセン状の線が描いてある。このラセン状の線を、右下の塗りつぶされた図形として見よという指示がある。端的にそのように見よという指示である。どうみてもただちに繋がる図形ではない。つまり既存の意味の脈絡ではどのようにしても関係づけを行なうことができない。二つの図形の隔たりにさまざまな解釈が持ち込まれる。ラセン状の線をさらに書き込みつづければ、やがては紙面全体が真っ黒になり同じ物になるという、言ったはなから微笑みのもれてしまう解釈から、ラセン的線と平面の位相的な写像、つまりある多変数変換をかければ両者が変換可能であるという、過度に教養に妨げられた解釈まで、この隔たりの隙間に導入される。




経験の形成の場所そのものを作品として作り上げている場合、この作品は、見かけ上謎だらけにみえる。既存の意味を破壊し、一切の意味のコンテキストを断ち切り、断片のまま宙吊りにし、意味の脈絡が切断される境界線をそのまま作品にしているように見える。いわば意味の限界がそれとして描かれているように見えるのである。

だが、これは作り出された作品をすでに完結した観賞(観照)される対象として見た場合である。この作品がかりにそれぞれの人に知覚のやり直しを否応のないものとし、各人はその作品から、みずからで経験し意味を形成してみなければならないとき、この作品は意味の形成の場所そのものを示している。この場所にあって各人はみずからの経験を作動させ、みずから自身で意味形成を行なわなければならない。だからこの作品は同時に一種のエクササイズであり、そのことによって経験はみずからの作動の可能性を繰り返し予感することができる。しかもここでは制作の場所そのものを開示することが問題になっているのではない。場所の開示だけであれば、解釈学的行為の先行的理解の地平を浮かび上がらせることによっても可能である (2) 。むしろこの場所で否応なく、行為としての知覚を引き起こすことが必要になっている。つまり形成の場を指示するだけではなく、現に見るという行為をつうじて意味形成を実行することが要求されている。たとえひとつの作品で、ある境界を越えたらもはや意味を失い、それが何であるかを考える手がかりさえ失う場面がある。つまり、それ以上ひきはなすとなにもかも台無しになるが、その手前にとどまる限り意味形成の可能性のままにとどまってしまう領域がある。この場所を直接作品として示すことで、否応なく知覚の行為を行なわせるのである。この行為の回路こそが問題なのである。荒川の作品は、行為が否応なく作動せざるをえない場所を提示し、オートポイエーシスは、その作動の機構を示している。


この場所のことを、荒川は『死なないために』では「 ブランク 」と呼んでいるように思える (3) 。意味の可能性は視覚的には一種の空白となって、まるでものごとの裾野のような広がり方をしている。いま眼前に花瓶を置き、花瓶の裾野を眼前に開け広げる。これは対象そのものに対して地平のようになっている。このとき明確な意味である花瓶を取り除いてみる。そうすると広がりだけが残る。視覚のこの事例を、形成された意味一般に拡大する。明確な意味を取り除いたとき、そこに成立しているのがブランクである。このとき何を経験するかを問うているのが、この『死なないために』という作品のモチーフである。いっさいの対象が失われたブランクでも、感覚はなおそれ自体で動きつづけている (4) 。この動きは時間、空間以前のものであり、座標系以前の動きである。このブランクに原初的な境界が形成されたとき、これが 「 切り閉じ 」と呼ばれる。この最初の境界は、原感覚 に対応している。動きつづけている感覚が、まさにみずからの動きによって世界に境界を形成していくその場面を捉えているのである。原感覚とは、運動することと感覚することがまさに分岐する地点で作動している感覚である。この切り閉じが、オートポイエーシスの「自己」(Selbst)であった。運動を継続することが、すなわちみずからの境界を区切ることだからである。



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