THOUGHTS
ホモ・エクササイズー生き抜くことへの賛歌
日々新たに目覚めるために-荒川修作とともに
エルヴィス・プレスリーへの手紙
宿命反転都市を目指して
 
日々新たに目覚めるために

オートポイエーシスは、制作行為を基本に置き、どのようにして物を作り出せるかを示すための機構であった。それは同時に自己を形成することでもある。ここに必要とされたのが経験の自在さである。自在に新たな経験に入っていくための回路が、オートポイエーシスの機構で示されたものである。みずからの経験が変わるのでなければ、どのように他者に出会おうと、自分とは異なるものとして、自分から割り振られた他者にすぎない。むしろ日々自己自身になりつづける自在さの機構が、オートポイエーイスであった。みずからが行為の継続をつうじて、自己の境界を形成し、そのことによって自己は内部も外部もないというように開かれてしまう以上、すでに自己のうちに無数の他者が浸透している。他者に出会うことは容易だが、みずから自身が変わるのでなければ、他者に出会ったことにはならないのである。ここに自己自身が日々新たに形成される機構が必要となる。

行為にはつねに選択がともなう。これはアリストテレスが行為を特徴づけるために強調したことである。選択をともないながら行為が継続していく。これを機構として描いたのがオートポイエーシスである。そのとき行為の継続を追跡することが、おのずとこの機構の内へと巻き込まれて、さらに行為の継続を遂行することができるよう組み立てられたのが、このオートポイエーシスの機構である。これだけの条件をみたすためにあの機構が必要であった。


オートポイエーシスは、日々新たに目覚めるための行為の仕方を描いている。だからこうした行為の場を造形するかたちで、類似した企てを、まれな才能を示しつづけるニューヨーク在住のアーティストの荒川修作がすでに実行していたのである。荒川の作品は、制作の行為がおのずと始まってしまう場所を作品のかたちで示しつづけることであった。つまり行為の継続する機構を示し、自在な行為の可能性を探るオートポイエーシスに対して、荒川は自在な行為の場をそのまま作品として描く企てを行ったのである。いずれの場合も経験をエクササイズとして実行することで、同時に創発へといたる回路を、各人が形成しなければならない。
創造性へいたる回路で、同じ対象をまったく別様に経験していることがある。月並みな経験を別様に言い換えるのではない。別様に経験してしまっているからこそ、別様の記述が必要になる。既存のものに差異化を行ない別様に経験するのではない。これでは差異化の範囲に閉じ込められた予期された別様さである。別様に経験しうるためには、経験そのものが形成される場所へと立ち戻ってみることが有効である。


経験の形成の場所そのものを作品として作り上げている場合、この作品は、見かけ上謎だらけにみえる。既存の意味を破壊し、一切の意味のコンテキストを断ち切り、断片のまま宙吊りにし、意味の脈絡が切断される境界線をそのまま作品にしているように見える。いわば意味の限界がそれとして描かれているように見えるのである。

だが、これは作り出された作品をすでに完結した観賞(観照)される対象として見た場合である。この作品がかりにそれぞれの人に知覚のやり直しを否応のないものとし、各人はその作品から、みずからで経験し意味を形成してみなければならないとき、この作品は意味の形成の場所そのものを示している。この場所にあって各人はみずからの経験を作動させ、みずから自身で意味形成を行なわなければならない。だからこの作品は同時に一種のエクササイズであり、そのことによって経験はみずからの作動の可能性を繰り返し予感することができる。しかもここでは制作の場所そのものを開示することが問題になっているのではない。場所の開示だけであれば、解釈学的行為の先行的理解の地平を浮かび上がらせることによっても可能である (2) 。むしろこの場所で否応なく、行為としての知覚を引き起こすことが必要になっている。つまり形成の場を指示するだけではなく、現に見るという行為をつうじて意味形成を実行することが要求されている。たとえひとつの作品で、ある境界を越えたらもはや意味を失い、それが何であるかを考える手がかりさえ失う場面がある。つまり、それ以上ひきはなすとなにもかも台無しになるが、その手前にとどまる限り意味形成の可能性のままにとどまってしまう領域がある。この場所を直接作品として示すことで、否応なく知覚の行為を行なわせるのである。この行為の回路こそが問題なのである。荒川の作品は、行為が否応なく作動せざるをえない場所を提示し、オートポイエーシスは、その作動の機構を示している。
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