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Ambiguous Zones 1: A Self-Portrait Near the Ocean

Ambiguous Zones 1: A Self-Portrait Near the Ocean

 

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みなさまへ

 

Reversible Destiny Foundationと荒川+ギンズ東京事務所にとって、夏は荒川修作の誕生日7月6日のお祝いで始まります。今年は荒川生誕85周年を迎えます。

 

Distraction Seriesは、昨年コロナウイルスによるロックダウンにより、スタッフが皆自宅からの遠隔勤務に移行した事をきっかけに始まりました。現在では、各国それぞれのペースでワクチン接種が進むにつれ、パンデミック関係の規制が緩められてきました。日常生活が再スタートする環境となりつつある今、私達のニューズレターも今月より新しくAmbiguous Zonesと名を改め、引き続きさまざまな角度から荒川とマドリン・ギンズに関連する事柄の紹介や考察を毎月配信してまいります。

 

記念すべきAZシリーズ第1号では、夏と荒川修作というテーマのもと、「浜辺」を曖昧な境界線としてとらえ、荒川の1967年の絵画作品<A Self Portrait Near the Ocean>(海辺の自画像)の実験的解釈を試みますので、是非ウェブサイトをご高覧ください。今年の夏、皆様が海辺を楽しみ、セルフィーで自撮りをする時などにふとこの作品が頭をよぎることを願っています!

 

Yours in the reversible destiny mode,

 

Reversible Destiny Foundation and ARAKAWA+GINS Tokyo Office

 

 

 

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Arakawa, A Self-Portrait Near the Ocean, 1967, oil, acrylic, graphite, art marker and collage on canvas, 90 x 63 in. Photo by Rob McKeever. Courtesy of Gagosian.

 

夏が本格的に始まり、海水浴などのシーンがメディアを通して頻繁に見られるようになるこの時期、1967年制作の荒川修作の絵画作品<A Self Portrait Near the Ocean>(海辺の自画像)を見てみましょう。この作品のスナップ写真を撮った時のような瞬間と「ビーチ」という設定は、今回が第一号となるこのAmbiguous Zone(あいまいな地帯)ニューズレターで考察するに相応しいように感じられます。

 

荒川とマドリンの視点から考える「あいまいな地帯」は限りない数の解釈を可能にします。荒川は1960年代終わり頃に、「想像が働きメンタルイメージが作られる前の瞬間の状態を私は描きたいのです」と語っています。荒川が描かんとするこの状態がまずあいまいな地帯であり、それはつまり知覚と認識の中間地点。この状態を絵画にすることで、(絵具が保つ限り)瞬間と永続が共存するというもう一つの意味合いでのあいまいさが生まれます。ここではドゥルーズ/ガタリによる「被知覚態、変様態、そして概念」の議論が大いに関連してくると思われます。(注)

 

 

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<A Self Portrait Near the Ocean>における瞬間と永続の概念を振り返ると、まず人物―おそらく荒川本人―が輪郭のみで示され、その中身は見る者それぞれが想像で満たしていくことを促しています。画中に見られるSANDS(砂)という語は、荒川が砂浜もしくは考えようによっては砂丘の様な場所にいることを想起させ、岩と砂という地層学的スケールの時系列内の関係性が出現します。浜辺を形作る砂はまた、永遠と続く波のうち寄せによって長い時間をかけて動き変様していくものです。知覚されようによって海辺は余暇の場とも労働の場ともなりうるのです。

 

絵画の構図は荒川がよく使用した3層構造で、背景に銀色の帯である空、その左上にはAIRPLANEの文字から矢印で挿され画面外へ逃れ行くかのような球体の一部、前景は白の帯でその左下にはこれもまた画面外へ続く様に見える球体の一部が見られ、これは矢印でBICYCLEの文字とつながれています。これら二語の言葉無しにはこの上下の帯状の地帯が果たして描かれているであろう景色の一部と想像するのは困難です。この自転車は誰のものなのでしょう?飛行機はジョン・F・ケネディー空港に向かっているのか、もしくはそこから飛び立ったところなのでしょうか?

 

 

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HEADとFOOTの文字からは、構図中央にいる荒川の姿が暗示されます。その身体の部分にはいくつか無関係に思われるような単語が見られます:SHIP、AIR、TINFOIL、そしてHAIR。船は荒川の後ろを通り過ぎているのか、空気が彼を取り囲んでいるのか、それとも彼の前にあり、呼吸によって前後/彼の身体の内外に動いているのでしょうか?空気の流れは彼の髪を靡かせてはいないようです。それとも帽子をかぶっているのでしょうか。アルミホイルはサンドイッチでも包んでいる?もしかして、この髪は荒川の髪ではない?足元右側にはまたSANDSの文字、そして頭上右横にはOCEAN。荒川の足は確かに砂の中であり、そこに立っているのであれば海と船は彼の背後ということになります。けれどもこれも見方によって彼は海に入ったところの砂上に立っているとも想像できます。それとも荒川は砂浜に横たわっているのでしょうか?その右側にはBALLと矢印された球体が波際もしくは砂の上に飛んできています。

 

構図の中景を色とりどりの平行線が横切り、それらがさらなるヒントを与えてくれます。船は海と同じ空間帯に位置し、その下方にあるボールは空気と書き込まれた空間帯から下方へ落下していくように見えます。空気の帯の下、かつ最前景の一つ手前には(荒川が手にする?)アルミホイルのスペース、ついには髪、足、砂の文字が一緒の下方空間帯に位置しています。身体の一部である頭と足の二語が同じ色の線で画面上と下に描かれるのは、もしかすると身体はこの絵が描かんとする空間内の一番手前のところに存在し、その他全てはその後方で、構図の上の空間帯へ行くほどに遠景へと離れていくのかもしれません。そうするとアルミホイルはどこに位置するのでしょうか?これも荒川の後ろにあるとしたら、この画面前方にたつ見る者の立ち位置からは視界に入るはずはありません—ようやくこの絵画の構図が認識できたと思った矢先にアルミホイルがその認識を白紙にもどしてしまいます。中景を横切る線が生むあいまいな地帯の断層は高低だけでなく遠近も縫合している様に思われます。セザンヌやピカソが絵画で模索したように、この荒川作品もまた複数視点を持ち、(像が横たわっているとしたら)見る者の視線は上方から下方へ、もしくは(特に船が海を航海する様が背後であるのならば)そばから遠方へと向けられているのです。

 

 

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Photographs: Arakawa at the beach, Japan, ca. mid 1950s

 

(注) ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著『哲学とは何か』より「被知覚態、変様態、そして概念」;言及の章は英語版Gilles Deleuze and Félix Guattari, “Percept, Affect, and Concept,” in What is Philosophy?, translated by Hugh Tomlinson and Graham Burchell, (New York: Columbia University Press, 1994), 163-199頁。