Distraction Series 12: ヘレン・ケラーまたは荒川修作(2020年10月7日更新)

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マドリン・ギンズ著 渡部桃子訳『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』(日本語版)表紙、新書館 2010

10月は視覚障害意識向上月間(Blindness Awareness Month)です。そこで、『Distraction Series』第12号ではマドリン・ギンズ著『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』(Helen Keller or Arakawa;英語版1994年、日本語版2010年)を取り上げ、日米両国で多くの人々に多大な影響を与えたケラーの軌跡が、荒川とマドリンの建築分野での思想と活動にどのように反映されているかを考えます。広く読まれる小学生向けのケラーの伝記の多くが彼女の子供時代と家庭教師であったアン・サリヴァンに焦点をおくものであるのに対して、ギンズのアプローチは深い詩的考察に基づくものです。まず、ケラーの言葉の引用と、著者自身の詩的表現から綴られる視覚と聴覚障害の状況を様々により合わせ、複数性を内包した主体を荒川の絵画作品を背景に世界に降り立たせます。そしてこの複雑化した存在を通して、読者に普段想像もしない世界の体験法と、それを可能にさせる「建築的身体」を生きるとは何なのか、を精査すべく導きます。このプロセスを詳しくイメージとともに考察するエッセーをぜひご一読ください。

また、視覚障害意識向上月間に先駆けて、先週開催されたニューヨーク・フィルムフェスティバルでは、ヘレン・ケラーの新しいドキュメンタリー映画「Her Socialist Smile(社会主義者の微笑み)」がストリーミング上映されました。ジョン・ジャンヴィト監督によるこの映画は、政治活動家としてのケラーを主題とし、マドリンと荒川も興味を寄せた社会への働きかけという今日さらに重要となっているアクティビズムにおいて功績を残したこの歴史的人物をタイムリーに再考する作品です。フィルムフェスティバルのプログラムから作品案内を下記に引いておきます。

ジャンヴィト監督 は20世紀初頭のある瞬間に目を向ける。それはヘレン・ケラーが進歩主義を支持すべく情熱的に語り始めた時。映画は1913年、当時32歳であったケラーが初めて公の一般講演を行った年から始まり、新しく録音された詩人キャロリン・フォーシェによるナレーションとともに、ケラーの手記と様々な自然のイメージが織りなす作品である。労働者権利、平和主義、そして女性参政権を求めたケラーの揺るぎないアクティヴィズムは、彼女が生涯戦い続けた障害者運動の思想から切り離されてはならぬことを改めて思い出させる映画である。https://www.filmlinc.org/nyff2020/films/her-socialist-smile/

フェスティバルのストリーミングはすでに終了していますが、レンタル配信が始まり次第またお知らせをお送りします。

DS今月号もみなさまに楽しんでいただければ幸いです。次号は11月4日、マドリンの誕生日前日の配信となります。その頃アメリカでは、さてどのような週になっているでしょうか。

Yours in the reversible destiny mode,

Reversible Destiny Foundation and ARAKAWA+GINS Tokyo Office

On Helen Keller or Arakawa

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図1: 山口正重 著『子どもの伝記全集3 ヘレン・ケラー』ポプラ社 1968年 

幼少期に視覚と聴覚を失ったヘレン・ケラー(1880−1968)は、障害者運動に生涯を捧げ、そのアクティヴィズムによる大きな社会的貢献がアメリカで広く尊敬される人物です。私たちの多くは小学校の頃に彼女の伝記を通してその功績を学ぶ機会があったことと思います。日本でも子供向けに書かれたケラーの伝記(図1)は広く親しまれていますが、マドリン・ギンズはこの1968年出版の日本語で書かれた伝記を使って日本語の勉強をしていたことが、ページの余白に書き込まれた様々なメモによってわかります。後に建築のプロジェクトを始めるにあたって、マドリンと荒川にとってヘレン・ケラーの存在は大きなインスピレーションとなりました。1994年にはマドリンの思弁小説(speculative fiction)『 ヘレン・ケラーまたは荒川修作』(英語版)が出版されています。

荒川+ギンズの語彙における「切り閉じ / cleave」の現象のように、この小説では、ケラーにまつわる話と彼女の言葉の引用が、マドリン自身さらには荒川の物語と同化し一つの物語が形成されていきます。その中で、ケラーの生きる視覚と聴覚の無い世界が、荒川の美術作品や荒川+ギンズという二人の共同による哲学的実践が想起させる「ブランク/blank」とかさなるさまが綴られていきます。マドリンは筆頭で、この物語が読者の私たちにとっておそらく未経験の法則によって成り立つ実験的な世界であることを知らせます。この実験では、ヘレン・ケラー、荒川、そして著者自身という三者は癒合され、包括的な「わたし」とされます。物語の全体を通して、一行ごとにその行を語るのがこの三者のうち誰であるのか、そこで語られる思いや思い出は誰のものなのかは常時定かなわけではなく、この不確かな輪郭の存在は、人と環境という二項対立の消去(「広がっていく空間/surround」)を読者が受け入れやすいようにし、ひいては「パズル・クリーチャー / puzzle creature」または「人間となる有機体 / an organism that persons」など様々に呼び名を変えて言及されることとなる「建築的身体/architectural body」を出現させます。

さらにこの著書でマドリンは、ケラーの経験を語ることが荒川の絵画作品の詩的描写–エクフラシス–となるという多様性を巧みに生み出します。こうして合体する思考の様相は、荒川+ギンズの哲学と建築における活動をさらに深く理解する上で重要な手がかりを与えてくれます。つまり 『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』は単に思弁小説であるだけでなく、荒川作品の的確な解釈としても読むことができるのです。

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図2: 《問われているプロセス》のフロアパネルの上に立つヘレン・ケラー 1987-99

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図3: 荒川修作《想像力の部分の図式 / Diagram of Part of Imagination》1965

例えば、荒川の視点から語られるあるジャズ・ミュージシャンの話。このミュージシャンの女性は荒川に肖像画を依頼したのですが、その出来上がりを不満足に思っていたところ、荒川はその絵は彼が部屋の四方に「見つけた」彼女を全てスケッチすることによって建築的身体の概念の始まりを描いたものだと答えます。部屋全体がフレームであり、その中の全てが肖像である — このような空間構成の仕方は荒川に建築の青写真を思い起こさせ、この形式によって彼は自分のイマジネーションに秩序を与える方法を見出します。建築青写真が空間に秩序を与えると同様に、アイデンティティーも登場させ、また、枠組みを与えることができると考え、「既成のものとしての青写真は、他者を知覚した結果を凝縮したものであり、その完璧な例」であるとみなしたのです。<想像力の部分の図式 / Diagram of Part of Imagination>(1965年制作;図3)は、こうした思考経路を経て描かれた作品の一例であり、その構図では生活の場である室内の各部屋やエリアにラベルが記され図式化されています。点と線は空間を描写したり物をその状況に置く意味深いシンボルでありながら、また、時間と時空間の動きを体現します。さらに作品タイトルが示唆するように、このキャンバス内には見えないものも実は同時に存在しています。想像力の「部分」はこの部屋、またはその内部に注目しており、想像力の残りの部分は「膨大な量の他の事物や事象のことで忙しい」のです。

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図4: 荒川修作《話している、あるいは歩いている / Talking or Walking》 1969

また、<話している、あるいは歩いている / Talking or Walking>(1969年制作;図4)という絵画作品では、体が複数のドットとして様々な身体部分に分解され、それぞれの部分がまわりの環境に見出される物と相関し空間を整理するよう矢印をもって描かれています。この身体は、ドットの示す腕、前腕部、手、足の特定位置からして、明らかに頭を進行方向へ出して前進しつつあります。ここでギンズはカール・マルクスの引用をナラティブに挿入します − 「我々はこの世界のことを十分に解明した。肝要なこと(ポイント / point)とは、世界を変革することなのである。」さらにマルクスの言う「ポイント」は、荒川が効果的に作品に使用した記号としてのポイント、つまりドットと掛け合わされ、その集合体は「愛すべき変形自在の目印であり、絵描きとしての資質と意志を持っている」「ヴォランタール / Voluntar」という女性名詞によって人称化されます。彼女はある一瞬そこにある/いる事物や身体を示すとともに、各々のドットを人間となる有機体として重視することによって、それらの運動と変形の可能性を表します。なぜなら、それぞれのドットは常に無限のバリエーションのある潜在的動きを今にも実行にうつす状態にあるからです。荒川の絵画作品はこうした全ての潜在性を提示していると解釈できます。

ヘレン・ケラーの視点から語られる話の例としては、彼女が自由に駆け回ることができるように裏庭に様々なロープを掛け渡して境界を作った逸話があげられています。荒川の作品に見られる地図空間的思考のように、ギンズはケラーが空間を図式的に考えることによって自己の位置認識をし、部屋の中を、あるいは部屋から部屋へと動いていたに違いないと想像します。ケラーの経験した世界を探求することによって、ギンズはケラーが夢見た光の感覚と、荒川が窓のモチーフに特質を与えるもの、さらに、空間を満たすものとして作品に使用した光のイメージをつなぎ合わせます。そしてもう一つは、ケラーはある時期ものを数えることに熱中したことがあり、自分の 髪毛の数すら全部数え始めるのではと家庭教師サリバン先生を心配させたという逸話。この二つの話に関連するテーマ全てが荒川の<名前の誕生日 / Name’s Birthday>(1967年制作;図5)にまとめられています。いくつかの平行線は壁、図式化された空間、そして物の存在領域を示し、それらの物は構図の左半分では名前を表記するラベルを伴い、右半分では名前に代わって数字が表記され、それらはどうも別の物を指し示すかのように見えます。数字が別の物を指すのか、それとも単にそこにあった物が移動したのかは個人の解釈に委ねられ、右半分の構図内では線は点線として描かれています。さらに構図全体に薄い縦線が一定間隔で現れ、空間をさらに分解する効果を加えています。単語と数字を指し示す矢印はロープの束から発されており、それぞれの物が一つの有機体の部分であることを意味するのかもしれません。右上の窓はかすかに開いており、隙間から光が差し込んでいますが、その光自体はまるでまた別の物、もしくは物として認識される光となっています。この光が存在する証拠は構図下部に位置する糸とロープの束の周辺にのみ見出され、これらは一つの集合体の代理の役割を果たします。再度ギンズの表現を引き合わせて考えるならば、ここで私たちは光が「絵描きとしての資質と意志を持っている」人物であることを文字通り発見するのです。

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図5: 荒川修作《名前の誕生日 / Name’s Birthday (a couple)》 1967

このような光の探求は荒川のインスタレーション作品<どこにでもある場 X / Ubiquitous Site X>(1987−91年制作;図6)に昇華されています。薄ピンク色のゴム幕の下、閉ざされた暗闇の空間を歩くのは、まずは光のない世界を体験させるためと思われます。暗闇の中、さらに床に設置されたいびつな地勢の台の上では、鑑賞者はまさしく視覚以外の感覚を呼び覚まして動かなければならず、その過程で自分の身体をより敏感に認識するようになることでしょう。心拍音と呼吸が体内という闇から出入りするのを知覚し、さらに自分を取り囲む周囲も暗闇であることを意識した時、あなたの「わたし」という領域が無限になっていくように感じるでしょうか。「わたし」は、光の存在する方向であるこの作品の臨界点を求めて周囲へと拡張していくでしょうか。光が内にない時、それは外にあるに違いない、それともケラーが言うように、それは人の周りに光輪のように輝いているのでしょうか。ヘレン・ケラーのおかげで、この作品にとって取り除かれたものである光がおそらく最も重要な焦点であることが理解できます。光の不在によって空間と多層面で関わり合うことができるのです。視覚に頼れば様々な限界枠を観察できますが、それが見えない場合、空間は明確な定義を失い、遍在することになります。理論的には、怯えることさえなければ身体はそこで自在に動くことができるはずです。この考えをギンズは詩の形式で表現しようと試み、下記の二つの可能性に落ち着きます。(図7)

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図6: 荒川修作《どこにでもある場 X / Ubiquitous Site X》 1987-91

 

図7-1: Excerpt from chapter 25 “Brave Light”, Helen Keller or Arakawa (1994)

図7-2: Excerpt from chapter 25 “Brave Light(japanese subtitle)”, Helen Keller or Arakawa (1994)

ここまでに考察した多くの概念は東京の三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller(2005年築;図8、9)に反映されています。 典型的なダイアグラム形体の拡大・反復で構成されているこの建物は、様々な表面のテクスチャーとともに、視覚のみでなく全ての感覚を使って体験できるようにデザインされています。見学ツアーは時に目隠しをしながら行われ、<どこにでもある場 X>の体験と同様、ここに広がる建築空間の中で、いかに目に頼ることなく存在するかを教えてくれます。

図8: 荒川修作+マドリン・ギンズ《三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー 内観》 2005

図9: 荒川修作+マドリン・ギンズ《三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー 内観》 2005

この小論では『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』におけるマドリン・ギンズの流暢な韻文のほんの一部をご紹介しましたが、この複雑さ溢れる詩的実験は全編読み応えがあります。エクフラシスから建築的身体の概念、そして時空間における光の体験、様々なテーマを巡ってきましたが、最後にここまで言及しなかった、けれども楽しい感覚 – 味覚 – について考えてみます。この著書の中でギンズは、 ケラーが夢の中でダイニング・ルームにぶら下がっているバナナの群生した房を満腹になるまで食べるイメージと、荒川の料理レシピ絵画シリーズの内<無題(バナナケーキ) / Untitled (Banana Cake)>(1968年制作;図10)を対比させます。双方とも境界線が焦点となっています。ケラーの夢ではバナナはすでに皮がむいてあり、なんの妨げもなくすぐに食べられるようになっているのですが、一方荒川の作品では、バナナケーキは作られる以前のレシピという実物からは隔たった状態にあり、鑑賞者はすぐに味わい楽しむことはできません。画中でケーキの材料は別々に描かれ、それらが集合体になって初めてある一つのユニークな物になります。それでも見る者は癒合されて一つのケーキというテクスチャーと味になる以前の個々の材料の味 − 全てが良い味でないにせよ − を想像することはできます。バナナはケーキに水分とヴォリューム、さらにあの独特の甘い風味を加え、ケーキとなった時にそれまではバナナの内部にあったたくさんの種が拡散されて目に見えるようになります。ただし、以前バナナケーキを食べた経験がなければ、これらの材料が合わさって織りなす味や焼かれた後のテクスチャーを想像すること、つまりギンズの言うところの「活動する思考する場についての記録」をするのはとても難しいでしょう。そこで彼女は次のような結論に至るのです。「理論よりも、むしろレシピの方を推薦したい。もうひとつ考えるべきなのは、説得力に欠け、誤解を招きかねない形而上学よりも、バナナケーキの方がどれほど好ましいか、ということだ。」

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図10: 荒川修作《無題(バナナ・ケーキ)/ Untitled (Banana Cake)》1968

Sources:
Gins, Madeline. Helen Keller or Arakawa. New York and Santa Fe: Burning Books, 1994.
Gins, Madeline. Heren Kerā matawa Arakawa Shūsaku (Helen Keller or Arakawa). Translated by Momoko Watanabe. Tokyo: Shinshokan, 2010.